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1.2000年の大聖年の準備
大聖年直前準備の「聖霊の年」に「聖霊降臨」を祝うわたしたちは、「教会は聖霊の導きに身をゆだねること以外の方法で、新しい千年期を迎えることはできません」という教皇ヨハネ・パウロ二世のことばを、今一度、真剣に受けとめるよう招かれています。
二十一世紀に向かっているカトリック教会は、今大きな転換期の中を歩んでいます。日本においてもバブル経済崩壊後、あちこちで従来の社会システムが行き詰まっており、「日本の社会は、あらゆる面で大胆な変革なしに生き延びることができない」と叫ばれています。人々は、先行き不透明な気分の中で、日々取り巻く現実に振り回されて生きているのです。今こそ、わたしたちキリスト者は、キリストの福音こそが希望の光であると信じ、聖霊の導きに身をゆだねて回心する必要があります。そうすることによって一人ひとりのキリスト者は、救いの秘跡としての教会の使命、「神との親密な交わりと全人類一致のしるしであり道具」(『教会憲章』1)である教会の使命に参加していくことができるのです。聖霊の導きに身をゆだね、教会と社会を刷新する奉仕者となる決意を新たにすることこそ、2000年の大聖年を迎える最良の準備です。
2.聖霊降臨の新しさ
「わたしは、父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14・16)。今日は、キリストが聖霊を弟子たちに送るという約束が実現し、教会が誕生し、歩み始めたことを記念する日です。
神の霊は、天地創造のときから、その後の救いの歴史、いや人類のすべての歴史の中で常に働いています。では、聖霊降臨の新しさとは何でしょうか。それは地のおもてを新しくするために御父より送られる聖霊が、今や「十字架につけられ、復活された」キリストの霊であるということにあります。聖霊の注ぎを受けた弟子たちは、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28・20)と約束されたイエスのことばが実現している喜びに包まれたのです。
3.教会の使命は「主キリストの愛という新しいおきて」の宣教
聖霊降臨の出来事の記述は、聖霊のシンボルだけでなく、シナイ山で十戒が与えられた場面を思い起こさせます。ペンテコステ(五旬祭)でエルサレムに集まっていた人々に、聖霊は主キリストの愛という新しいおきてを広く知らせたのです。
そのとき、様々な言語を話す人々は、弟子たちが自分たちの理解できることばで話しているのを体験しました。あの「バベルの塔」の出来事と反対のことが起こったのです。それは、すべての人々が「愛」という共通の言語で理解し合えるということです。言語や民族の違いが、人類を分裂させる原因となるのではなく、それらの違いを多様性として受け入れながら、人類を一つにする力が聖霊によって与えられたのです。国家間で、人々の間で、互いに分裂し、争い、憎み合い、傷つけ合う人類の歴史は、ついに一つの言語で平和のうちに交わることができるようになったのです。教会はこの「愛」という人類に共通な唯一の言語を使って、今日もキリストの福音を告げているのです。
4.堅信の秘跡の意味
聖霊降臨は、一回だけの出来事では決してありません。聖霊は事実、どの時代にもキリストのもたらした福音を生き生きとよみがえらせています。「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14・26)のです。
教会は堅信の秘跡において、神の民の一員となった人間がキリストの使命にあずかるよう、按手して聖香油を塗り、聖霊が与えられるように祈ります。聖霊のこの注ぎこそ、堅信の秘跡の特別の恵みであり、イエスの福音を告げる教会の使命が、神の子となったすべての人に、使徒的役割として与えられるのです。
聖霊はイエスのように、父のみ旨を第一と考えて行動する信仰生活を実現させます。聖霊の働きを意識するとき、自分のことにかかわる神からの働きや恵みとしてだけ考えてはなりません。聖霊は、「十字架につけられ、復活された」キリストの霊なので、自分に奉仕する神の働きではなく、神と人々に命をささげたキリストに似た者としていただくために、キリスト者に注がれるのです。特に堅信の秘跡は、わたしたちが、この「愛の奉仕者」として派遣されるためのものなのです
5.わたしの生きる目的と聖霊の働き
人は一生のうちに何度か、自分が大きな転換期にさしかかっていると思うときがあるものです。卒業、結婚、就職。あるいは失恋、失業、愛する人の死、別れ、病気など、大きな悲しみや絶望のうちに人生のどん底に追いやられるときがあります。そして、わたしは何のために生きているのかという根本的な問いに直面します。そのような状況下で、「キリストがあなたがたの内におられるなら、体は罪によって死んでいても、『霊』は義によって命となっています」(ローマ8・10)と、今日のパウロのことばが響きます。わたしたちの内に宿っている、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、死ぬはずの体をも生かしてくださるのです。
今、日本の教会が心にかけなければならないことは、司祭召命の減少や、あらゆる活動にともなう困難さよりも、目的を明確にもたないわたしたちキリスト者の生き方にあるのではないでしょうか。神の子とされたわたしたちに、奮い立たせるような目的を与えてくださる聖霊の働きを見逃してはなりません。
わたしたち信仰者の目的は、実はわたしたち自身の内にあります。わたし自身に発見されるのを待っているのです。自分のこれまでの人生を振り返り、神がどのように働きかけ、共にいてくださったかを思い起こし、今置かれている状況の中で自分自身を解放して、自分の内側にある愛の使命に向き合うならば、きっと発見できるはずです。一度見つけることができれば、たとえそれが自分の能力では不可能に思えたとしても、その目的を生きてみようとせざるを得なくなるものです。このような目的の発見こそ、聖霊の働きによるものです。聖霊は、「愛のための奉仕者として」派遣されているわたしたちをその目的へと導いてくれます。パウロは言います。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ローマ8・14)。
6.「聖霊、来てください」と祈りつつ
使命とは、「命を使う」と書きます。わたしたちキリスト者がもっている使命とは、「行って、わたしが愛したように愛しなさい」という神の愛のあかし人としての人生を生きることです。聖霊によって、わたしたちがキリストの福音のメッセージを生き生きと捕らえなおし、執着している生き方ややり方を根底から問い直し、新しい目的意識を出発点にして、勇気と希望をもって個人やグループの改革に取り組もうとするとき、聖霊降臨は今日も静かに起こっているのです。「聖霊、来てください」!
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