全国のキリシタン史跡を出版部員が実際に訪れ紹介する、連続企画の第3回目。今回は「中部編」とし、愛知、岐阜両県内の史跡を紹介する。訪問先選出にあたっては、前回同様、教区から提出された教区内巡礼地一覧を基準としたが、地理的な条件等により一部割愛した。
愛知・岐阜の史跡(3)
可児市・可児郡御嵩町(7月18日)
この日は一転、朝から雨だった。一宮の寺尾師との約束は11時、時間の余裕があるので名古屋市内の教会を撮影のために回ろうと思っていたが、この天候ではとてもまともな写真は望めるわけはなく断念、チェックアウトまでホテルの部屋で資料を読んで過ごした。
一宮に向かう電車に乗ると、途中すさまじいほどの豪雨になった。車窓から外が見えないほどである。こんな中を一人歩いていたら、いったいどうなっていたであろう。
駅で降りると雨脚はだいぶ弱まっていたが、駅前の道路はそれこそ川で、自動車が人の背丈ほどに高くしぶきを上げ走り抜けていく。
教会に着くと寺尾師は玄関先ですでに車に乗り込んでいて、車内で何やらガサゴソやっている。あいさつをして乗り込むと、見たこともないような恐ろしく旧式のカーナビを装着しているところであった。
しばらく走っているうちに雨は止んできた。木曽川沿いを西に向かう。雨に濡れた青葉が輝きを増して美しい。やがて木曽川を離れると犬山に入り、名鉄広見線の線路に沿って旧道を可児に向かった。
目的の甘露寺は塩交差点の近くで、甘露寺というバス停がある。寺を訪れる前に、寺と水田を挟んで流れている矢戸川(可児川の支流)の横に車を止めた。寺尾師の話によると、そのあたりが処刑地であったのだそうだ。
寛文年間における尾張・美濃のキリシタン一斉検挙は、この地、すなわち可児郡塩村および帷子村から始まった。寛文元年に、両村の地頭である旗本の林権左衛門が、尾張藩主徳川光友に自領内のキリシタン検挙を依頼した(「尾張正事記」〔『扶桑町史 上巻』所収〕による)。その際には24名の信徒が召し捕られ、名古屋へと引かれていった。ここに端を発し、この検挙は、五郎丸村、高木村へと拡大していく。
塩村の悲劇はこの検挙だけにはとどまらなかった。森徳一郎氏が紹介しているのだが、寛文7(1667)年に出された触れには次のようにある。「一 美濃塩村の御領分の者には出合ってはいけない。縁辺を結んではいけない。 一 田畑を貸しても借りてもいけない。 一 よろず商いに行ってはいけない。 一 もとからの親戚でも、今までのように親しく出入してはいけない」(前出「尾濃のキリシタン」)。なんと、この凄まじいまでの差別は明治の世まで続いたのだという。

甘露寺

甘露寺すずり石
当地で行われたという処刑に関しての詳細は分からない。おそらく凄惨な様が口から口へと伝えられてきたのであろう。横山住雄氏の『尾張と美濃のキリシタン』には、佐藤弥太郎という人が著した『しほの切支丹』という書物に叙述されている当地での処刑の様を引用されておりその原本に接したかったのだが、残念ながら国会図書館の蔵書にもなく、叶わなかった。
先ほどまでの雨が手伝ってであろう、この細い支流は勢いよく流れ、両岸の険しい岩にぶつかって、盛んに真っ白なしぶきを上げている。振り向けば青々とした水田が広がり、その向こうに、丘というほどの山を背にし、お堂の瓦屋根が見える。それが甘露寺だと寺尾師が教えてくれた。
甘露寺は小さな寺だが、ここに「硯石」なるものがある。解説板には次のようにあった。「この硯石は、坂戸地内の山林で取り調べがあった際、役人が調書作成のために自然石を打ち欠いて、硯がわりに使ったといわれるものであり、信者とゆかりのある甘露寺境内に移されている」。
2本のクスノキの巨木に守られ、本堂正面にそれはある。周囲3メートルほどの石であろうか。市の重要文化財に指定されているそうで、周りをフェンスで囲われている。椅子のような形の上に、確かに硯に使えそうなくぼみが彫られている。のぞきこんでみると、雨水が溜まり、落葉が小舟のように浮かんでいた。

みたけ館
再び車に乗り込み、国道21号を西へ、今回の最後の目的地である御嵩町に向かった。空はすっかり晴れ渡った。
25分ほどで御嵩町の「中山道みたけ館」に到着。
御嵩町とキリシタンとのつながりが明かになったのはごく最近のことである。町内上之郷謡坂地内に、五輪塔・宝篋印塔などの残欠が合祀され、謂われは分からずとも古くから信仰の対象とされてきた「七御前」という古跡がある。昭和56(1981)年に、この地が道路工事計画地に含まれることになり隣接地への移転作業が行われたところ、五輪塔残欠などの下の土中から、十字架を刻印した3点の小さな石が発見された。その後町内の神社などから同様のものが発見されるなどして、この地とキリシタンとのつながりが考えられるようになったとのことである(『御嵩町史 通史編上』による)。これら発見された遺物が、この「中山道みたけ館」には展示されている。
十字架が刻された石は両手に収まる程度の大きさなのだが、ガラスケース越しに眺めていると、強く心打たれた。十字架の刻印がなければ、それらはただの石ころでしかない。そういった意味で、たとえば栄国寺の博物館に展示されているような、十字架が刻された杯や鏡や鍔といったものとはまったく性格が異なる。これらを所有していたのは、もっとも抑圧され辛酸をなめ続けた庶民なのだ。
信仰生活において何かしらのシンボルを求めることは自然なことだろう。弾圧され表立っては己の信仰を表明することのできなかったキリシタンたちが、どんな思いで、この石に十字を刻んだのか、それを考えれば胸が締め付けられる。
また、片手で握ってすっぽり隠れてしまうような小さなマリア像も、数点展示されている。いずれも素材は石である。決して見事な彫刻ではない。逆に稚拙な彫りだ。しかし、だからといってくだらないと言うのではない。その稚拙さが胸を打つ。それこそが、庶民が自らの手で彫ったという証なのだから。さらに、それらは磨耗し、あえかな光沢を帯びている。つねにこれを握りしめていた、その持ち主の体温を今の世に伝えるかのごとくにである。
いわゆるキリシタン遺物と呼ばれるものから、これほどまでの感銘を受けるのは、わたしにとって初めての経験であった。
御嵩町のキリシタンについては、裏付けとなる史料が一切ない。しかし、これら遺物の存在は、確かに御嵩町にキリシタンが存在したことを明かにするものであろう。なぜ史料がまったく出てこないのか。それは分からない。もし、この地での宣教師や信徒の布教、あるいは逆にキリシタンの検挙や迫害があったとしたならば、往時は中山道の宿場町として活気を呈していたこの地なれば、何かしらの文書等が残存しているほうが自然だとも思える。もしかすると、御嵩のキリシタンたちは、迫害が苛烈を極めてきた一宮、五郎丸村、高木村などから逃げ延びてきた信徒だったのではないだろうか。その信徒たちが隠れキリシタンとして信仰を保ち続けたのではないか。しかし、当時、このような理由で他村に移ってきた者たちが、そこに定住できるような仕事を簡単に持てたとは考えにくい。鉱山などがあれば話は別かもしれないが、御嵩で隆盛を示した亜炭産業は、明治に入ってからのことである。
結局裏付け史料の存在しないことの理由は分かりようがなく、これら遺物について考察することによってしか研究の道は拓かれてこない。しかし、それは慎重の上に慎重を重ねなければならない作業だろう。安易な推論を立脚点にしてしまうことには危険な陥落が潜んでいる。たとえば、この町内には「南無阿弥絶仏」(「陀」の字が「絶」に置き換えられている)と彫られた笠塔婆が遺されている。これに関し『御嵩町史』では、この文字の意味について幾つかの推論を提示した上で、「仏を絶つ」の意味を込めたキリシタンの信仰とかかわりを持つものとする説が多く支持されていると述べているが、それは「推論の域を脱するものではない」とはっきりいっている。対してこの「中山道みたけ館」の展示では「キリスト教信者の手で建立された碑であることがわかりました」と断定的に説明されている。些細なことかもしれないが、こういったことは避けるべきだと思う。もし、その後に確証が得られるような何かが見つかったというのであれば、まずはそれをきちんと提示する義務があろう。
全国にはさまざまなキリシタン遺物といわれるものが遺されている。それらの「物」それ自体は、その謂われによって、遠い過去を偲ぶよすがとして価値あるものだということは間違いない。実際、わたしがこの御嵩の地で強い感銘を受けたことも事実だ。しかし「物」の信憑性、歴史的背景の正確性となると、ことキリシタン遺物の場合は、専門家でも意見が分かれるようなことも多い。それが背負う、つねに秘されなければならなかった歴史を考えれば、そのことは当然であるともいえる。
「物」に対する個人的な想いの投影は、何ら責められるべきことではない。あるものを通して、想像を働かせ想いを致すというのは、尊く、やがて祈りにもつながる行為だと思う。誤解を恐れずあえて極端なことをいえば、対象となる「物」自体が本当は偽物であったのだとしても、人の想いはそれ自体で尊いのだと、わたしは信じている。確定的ではない、あるいは伝承に過ぎない遺蹟や遺物に対して、特別な想いを抱き、それを守り大切にし保存していくということは、馬鹿げたことであるどころか、尊敬すべき行為だ。
しかし、そういったことと学術的な研究とは、まったく次元が異なる。研究においては、推論はあくまでも推論であると、明確に線引きしておかなければならない。今回の取材のために参考文献として読んだある人の著作では、いわゆるキリシタン燈籠を必要以上に前面に取り上げていて少々辟易した。そしてこの筆者がこれらの燈籠をキリシタンの信仰につながるものであるとする根拠が、はなはだいい加減なものなのである。せっかくの詳細な調査も、こういった曖昧な部分に立脚して考察を加えてしまえば、意味がなくなってしまい、かえって次世代の研究にマイナスの影響を与えてしまうかもしれない。
再び車に乗り込み、山中に向かって10分弱、遺物が発掘された七御前跡に着いた。

マリアの里

杉原千畝記念館
ここには、昭和62(1987)年に御嵩町観光協会の発案とそれに賛同した多くの人々の寄付によってマリア像が建てられており、「マリアの里」と呼ばれている。鬱蒼とした樹木や竹林を背負って、背後は暗くじめじめとした感じなのだが、一転マリア像には燦々と陽が注いでいる。生けられた花や飾られた千羽鶴が新しいので、きちんと管理されていることが分かる。教会関係者によって建てられたものではないので、仏教の要素などが中途半端に混じっていて、薄い笑いを浮かべたマリア様のやや奇妙な表情も含め、少々微妙な雰囲気を醸し出してはいるのだが、そう悪い気はしない。像の前のツツジが咲き誇る頃はさぞ美しかろうとも思った。
像の裏側に回ると、「史跡 七御前」と書かれた木の標柱が倒れてしまっていて、緑色に苔むした小さな石塔が何基もあった。どれも少々傾いでいる。一歩裏に回っただけなのに表の明るさとは正反対で、何か圧倒されるような空気が漂っている。午前中の雨で石塔が濡れそぼっている分、その感じは余計に強調されていた。
これで目的はすべて果たしたのだが、少し時間があったので、寺尾師は隣の八百津町にある杉原千畝記念館に案内してくれた。八百津は、多くのユダヤ人の命を救い東洋のシンドラーとも呼ばれるこの偉人の生誕地である。
一宮に戻ると、寺尾師から夕食の誘いを受けた。こちらももう少し神父と話がしたかったし、時間にも少しは余裕がある。さんざ世話になったその上にという気持ちも働いたが、もうこうなったら最後まで甘えてしまおうと、はなはだいい気なものであった。
その席で韓国と日本の比較のような話になった。神父は「韓国だったならば、ああいった殉教地は、その土地丸ごと買い上げて顕彰するはずだよ」と言われる。確かに韓国の人たちの信仰と情熱には、驚かされ学ばされることも多い。わたしは「そういう韓国人の熱い情熱の源泉はなんなのでしょう」と尋ねた。すると寺尾師は「韓国のキリスト教の始まりは、中国からキリスト教を持ち込み信じた人々にある。つまり信徒が出発点であって、宣教師頼りだった日本とは違う」というようなことをおっしゃった。
そのことばを聞いて、わたしの頭には、今回の取材で最初に訪れた地がすぐに浮かんだ。美和町花正――つまりコンスタンチノである。《日本にだってコンスタンチノのような人が確かにいたじゃないですか》そう思った。しかし、寺尾師が言いたいのはそういったことではない、それが分かっていたので何も言いはしなかった。神父のことばに肯きつつ、わたしは黙ってグラスを傾けていた。
(奴田原智明) |