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聖トマス西と15殉教者

聖トマス西と15殉教者カトリック中央協議会

1988年に出版された、「聖トマス西と15殉教者」の全文です。1987年に列聖された9人の日本人を含む16人の聖人たち一人ひとりを簡潔に紹介。キリシタン迫害の厳しかった1633年〜37年に長崎で殉教した彼らの姿は、今日のわたしたちに信仰と生活を一致させ、福音宣教に生きるよう励まします。


聖トマス西と15殉教者

 一九八一年二月フィリピンで列福されたトマス西と15殉教者は、一九八七年十月十八日、バチカンの聖ペトロ大聖堂前で、広場をうめつくす大会衆の見守るなか、教皇ヨハネ・パウロ二世によって荘厳に列聖されました。今回の列聖式は、日本との関係でいえば、「日本26聖人殉教者」が一八六二年に列福されて以来百二十五年ぶりのことになります。
 聖トマス西と15殉教者は、ドミニコ会司祭、修道士、修道女、彼らを助けた信徒たちで、キリシタン迫害の厳しかった一六三三年〜三七年に、長崎で殉教した人々です。この十六人のなかで日本人は九名だけで、他は、スペイン人四名、イタリア人一名、フランス人一名、フィリピン人一名で、とくにフィリピン人の聖ロレンソ・ルイスはフィリピンでの最初の聖人の栄誉をになうことになりました。
 聖トマス西と15殉教者に共通する特徴は、禁教のさなか、厳しい弾圧と飢え、寒さに耐えながら、自ら神との深い交わりのうちに生き、信者の信仰を強め、つねに神のみことばをのべ伝え、キリストのために命をすてたことです。彼らの福音宣教に生きる姿、そしてキリストのあかし人として生きたその生涯は、今日の私たちに信仰と生活を一致させ、福音宣教に生きるようにうながしているようです。
 「殉教者の血は信者の種」ということばもありますように、日本26聖人殉教者、日本二〇五福者殉教者、聖トマス西と15殉教者たちの信仰のあかしによって、今日のカトリックの教会があるといってもいいでしょう。



聖トマス西と15殉教者

聖トマス西
      司祭

 聖トマス西は一五九〇年、平戸の生月に生まれました。父ガスパルは松浦鎮西の重臣篭手田家の家老でしたが、主君が信仰のために追放されると同時に代官職を追われ、一六〇九年、藩主の棄教の命令に従わなかったため、妻、長男と共に殉教しました。その場所は、現在も「クルスの辻」と呼ばれ生月の聖地とされています。
 聖トマス西はおだやかな人柄で同宿(伝道士)として働き、多くの人々に影響を与えていましたが、一六二〇年頃司祭になるためにマニラに渡り、一六二四年ドミニコ会に入会し、二六年、日本人として初のドミニコ会司祭として叙階されました。二九年長崎に潜入し、棄教者への働きかけや、信者を集めミサをささげたり、秘跡をさずけ、苦労多い生活をしていました。ともに宣教していたヨルダノ神父が過労で倒れ、その看病のために水の浦に滞在中、逮捕され、長崎に引いてゆかれました。過酷な拷問にも教えを棄てず、一六三四年十一月十七日、西坂の丘で穴吊りの刑を受け、殉教の栄冠を受けたのでした。彼は殉教の聖なる西坂に着いたとき、地に口づけをし、信仰宣言を唱えたと言われています。四十四歳でした。




聖ヤコボ朝長
       司祭

 聖ヤコボ朝長は、一五八二年、現在の長崎県大村市に、キリシタンであり、身分の高い郷士を両親として生まれました。多くの信者が棄教した際にも信仰を守りぬいた両親に育てられ、司祭への道を志すようになりました。セミナリオを卒業した朝長少年は、同宿(伝道士)として働き、その生き生きとした説教と慎み深く柔和な人柄で、多くの人々を教会へ導きました。
 一六一四年、宣教師の国外追放のおり、マニラに渡り、ドミニコ会に入会しました。二六年、あれほど望んでいた司祭叙階の恵みを受けることができました。その後、エスキベール神父と共に、日葡辞書のスペイン語版を作り、日本への宣教に貢献したのでした。
 一六三二年八月、迫害の嵐が吹きすさぶ日本での宣教を決意し、五か月にわたる苦しい航海の末、薩摩に上陸することができました。それは、朝長神父五〇歳の時でした。三三年四月、長崎で宣教の先頭にたって働いていましたが、行動を共にしていたミゲル九郎兵衛が逮捕され、彼の白状によって朝長神父も捕まってしまいました。彼の叙階記念日である八月十五日、長崎の町を引きまわされ、西坂で穴吊しの刑を受け、八月十七日殉教しました。




聖ビセンテ塩塚
        司祭

 生年月日は不明ですが、聖ビセンテ塩塚は長崎で生まれ、九歳の頃からイエズス会のセミナリオで学びました。彼は芸術的才能に恵まれており、オルガニストとして活躍する一方、絵を描いたり、聖歌隊の指揮者としての面でも、その豊かな才能を発揮していました。セミナリオ終了後、同宿として宣教活動に従事していましたが、一六一四年、マカオに追放されました。
 その後、マニラに渡り、フランシスコ会の第三会員として日本宣教に向かう司祭たちに、日本語を教えていました。長崎奉行所での本人の証言によれば、日本潜入の数年前からマニラで司祭として働いていますが、叙階年月日は不明です。
 塩塚神父が日本語を教えていたゴンザレス神父の招きに従い、殉教を覚悟し、一六三六年、祖国に向かいました。出発前に彼はドミニコ会入会を希望し、着衣しています。吐喝喇列島の悪石島に着いたところを発見され、長崎に連行されました。
 苦しい拷問に耐えられず、棄教しましたが、その後も拷問が続けられました。同じ苦しみに遇っている司祭の励ましで信仰を取り戻し、一六三七年九月二十九日、殉教の冠を得たのでした。




聖マテオ小兵衛
        修士

 マテオ小兵衛の生涯については、彼とともに宣教に励んだルカ神父が記した記録が残っています。それによると、彼は一六一五年、長崎か有馬で生まれました。ルカ神父と働き始めたのは、一六三二年のことでした。
 ルカ神父は「大阪で私とともに捕らわれた若者二人のうち、……一人は十八歳のマテオ小兵衛で、……私のこの長い旅に彼を残してきたのだが私が都に戻ると私を探しに来て、私といっしょに留まった。この少年はドミニコ会の修道者で、ロザリオのマテオ修士という」と書きのこしています。
 一六三三年ルカ神父とともに大阪で捕らえられ、長崎に護送されました。そのとき「このような惨めな世の中に生きておられるキリストのために、喜んで生命をささげます」と言ったと伝えられています。
 棄教を勧められたのですが、がんとして聞き入れなかったため、十月十九日、長崎市内を引きまわされた後、穴吊りの刑を受け、殉教したのです。




聖フランシスコ正右衛門
           修士

 聖フランシスコ正右衛門については、出生地も生年月日も、迫害の時代で、資料がなくなっており、詳しいことはわかっていません。彼がともに働いたエルキシア神父との出会いについてもそうです。しかし、彼についてわずかにわかっていることは、エルキシア神父の十年間にわたる日本全土にわたる宣教生活を助け、逃避行のなかで宿を探し、道案内をし、人を集め、病人に聖体を配ったり、ミサの準備をし、日夜心をこめて神に仕えている姿です。エルキシア神父の活躍の背後には、つねに正右衛門の支えがあったのです。
 一六三三年、エルキシア神父とともに逮捕され、数々の拷問を受けましたが、棄教しなかったため、エルキシア神父とともに穴吊りの刑を受け、同神父とともにその責め苦に耐え、八月十四日聖母被昇天の前日、その命を天の御父のもとにかえしたのでした。
 聖フランシスコ正右衛門は、牢獄に入れられてから、ドミニコ会管区長代理であるエルキシオ神父のゆるしをえて、ドミニコ会に入会し、その制服を着衣しました。聖トマス西神父の手紙には、エルキシア神父とともに日本人修道士フランシスコが殉教したと伝えています。




聖長崎のマグダレナ
         修女

 長崎のマグダレナは大村のマリナとともに、最初の日本人女性として列聖の栄誉をうけた聖人です。殉教したヨルダノ神父の牢内日記に、長崎のマグダレナの両親の殉教についてしるされていますが、本人についてはくわしいことはわかっていません。
 一六一〇年頃、長崎に生まれましたが、両親が殉教した後、山に逃れ、ヨルダノ神父の指導のもとに修道女になろうと、ドミニコ会第三会員の制服を着衣し、ますます祈りと愛の業に励んでいました。
 しかし、一六三四年ヨルダノ神父、西神父が逮捕されたことを知ると、自らキリシタンの修道女でヨルダノ神父の弟子であると自首して出たのです。奉行たちは、棄教の勧めにも拷問にも屈しない彼女を見て、ついに女性として初めて穴吊りの刑に処しました。
 常識では考えられないことですが、彼女は十三日以上もこの苦しみに耐え、「私は、キリストの慰めだけで生きています」と答えるマグダレナに怒った刑吏たちから、さらに残酷に扱われ、十月十五日、その生命を殉教によって神のみ手にかえしたのです。




聖大村のマリナ
        修女

 大村の生まれということと、霊名以外には、この聖人についても詳しいことは不明です。
 信者としてのその生活は、大村の信者生活の模範であり、多くの宣教師たちをかくまい、励まし、ひそかに物質的にも多くの援助をしていました。
 一六二三年に来日したルイス・ベルトラン神父の指導で、ドミニコ会第三会の修道女となりました。彼女の活動は、「日本でもっとも勇敢な女性」として賞賛され、ヨルダノ神父がその伝記を書いたということですが、没収され、現存していません。しかし、多くのポルトガル人がその伝記を読んだことが知られています。
 マリナの宣教師を支える活動が目立ち、一六三四年捕らえられ、かずかずのはずかしめを受けた後、同年十一月十一日、ヨルダノ神父たち七十九名のキリシタンとともに、西坂の刑場に引かれてゆきました。西坂には火刑の柱、斬首や穴吊りの準備などがしてあり、多くの人々が見物していました。大村のマリナは、柱に縛りつけられ、多くの人が見守るなか、火炎に包まれ、神のもとにかえっていきました。




聖ミゲル九郎兵衛
         信徒

 聖ミゲル九郎兵衛については、出生地も経歴もよくわかっていません。彼についてわかっていることは、洗礼名がミゲルということと、殉教のようすだけです。しかし、その名前は信者たちによく知られており、彼の苦しみと殉教のようすを信徒たちがトマス西神父に報告し、今日、私たちが知ることができるのです。
 一六三三年、朝長神父とともに働いているミゲル九郎兵衛の逮捕を求める長崎奉行により、まず九郎兵衛が捕らえられてしまいました。水責めの拷問を繰り返し受けた彼は、信仰は棄てませんでしたが、その苦しさに耐えかねて、思わず朝長神父の宿を白状し、そのため朝長神父も逮捕されてしまいました。
 信仰は棄てなかったとはいうものの、彼の心の苦しみは、察するにあまりあるものがありました。こうして彼は、自分がもらしたために逮捕された朝長神父とともに、八月十五日、長崎の市内を引きまわされ、西坂の刑場につれてゆかれ、穴吊りの刑を受けました。九郎兵衛は、朝長神父の忠実な同伴者として、神父と共に五十時間におよぶ苦しみを耐えつづけ、殉教したのです。




聖京都のラザロ
        信徒

 京都のラザロについては、資料はほとんど残っていません。今回の列聖で、霊名も本名もわかっていないただ一人の人です。長崎奉行所の記録に「俗人日本人」とだけ記されています。殉教録を書いたロドリゲス神父が、ラザロという名前をつけたのです。
 生まれは京都で、ハンセン病を患っていた人だろうと思われる以外は不明です。おそらく幕府の命で、一六三二年長崎のキリシタンの混血児、乞食、ハンセン病患者の強制国外追放の際に、マニラに渡った一人だったのかも知れません。
 一六三六年、日本での宣教を志す神父たちの通訳と道案内に役立ちたいと考え、ゴンザレス神父やロレンソ・ルイスとともに、日本へ向かいましたが、琉球で逮捕され、翌年、長崎に送られました。
 水責めの拷問に屈し、一度は信仰を棄てたラザロでしたが、神父たちの祈りと励ましによって回心し、それ以後はどんな拷問にも屈することなく、一六三七年九月二十九日、長崎・西坂で殉教したのでした。




聖ロレンソ・ルイス
          信徒

 フィリピン人として最初の聖人として尊敬を受けているロレンソ・ルイスは、マニラの中国人町ビノンドに生まれました。生年月日は不明ですが、中国人の父と、フィリピン人の母の間に生まれ、ビノンドの教会で洗礼を受けました。読み書きができたので、子どもの頃から熱心に教会に行き、ミサに参加していました。
 教会での生活ではロザリオ会員であり、社会的には学校卒業後は公証人となり、結婚して二人の男の子と一人の娘が生まれ、幸せに暮らしていましたが、一六三六年、マニラ市でおきた殺人事件に巻き込まれ、殺人の容疑がかけられました。当時の習慣では、実際に人を殺したかどうかにかかわらず、捕らえられると死刑にされるため、ロレンソは日本宣教に旅立つ船とは知らず、マニラを脱出しました。
 しかし、船が琉球に着いたとたんに捕らえられ、棄教すれば生命は助けると言われたにもかかわらず、神のために生命をささげる強い信仰はくじけず、一六三七年九月二十九日、ともに刑を受けた神父たちと励まし合い、賛美歌を歌い、祈りながら、神のみもとに旅立ったのでした。




聖ドミンゴ・エルキシア
           司祭

 エルキシア神父は、一五八九年、スペイン領ピレネー山脈の麓にある小さなレヒール村で、生まれました。十六歳のときドミニコ会に入会し、一六一一年マニラに派遣され、そこで司祭となりました。エルキシア神父は徳のほまれ高く、その説教と文才でも有名で、神学教授として活躍するかたわら、病人や信者の世話、中国人移住者のために心をくだいていました。
 一六二三年、日本からの宣教師派遣の要請にこたえ、エルキシア神父は商人に身をやつし、同年日本に向けて出発しました。苦労の末、薩摩に漂着したにもかかわらず、外国商人追放令で長崎を出港せざるをえませんでした。しかし潜入に成功し、十年間九州、京阪、江戸、東北の各地で迫害、追跡の手を逃れながらも、信徒を励まし、秘跡をさずけ、宣教しつづけました。
 三一年管区長代理に任命され、ついでバチカンは邦人司祭叙階の目的で、彼を司教候補にあげました、一方、幕府はキリシタンの中心人物としてエルキシア神父捜索に力をそそぎ、遂に一六三三年七月九日、彼は大村領長代で逮捕されてしまいました。八月十四日、穴吊りの刑を受け、殉教しました。




聖ルカ・スピリト・サント
             司祭

 スペイン・ザモラ県カラセド村で一五九四年、聖ルカの祝日に生まれました。ドミニコ会に入り、同年、メキシコに行き、同年メキシコ市で司祭になりました。しかし、東洋での宣教を目指し、マニラに向かい、厳しい迫害のため壊滅寸前にあると伝えられた日本宣教を助けるため、一六二三年フィリピンを出発しました。
 長崎の近くで日本語を学び、迫害下の十年間、東北、京阪、九州と大胆に宣教活動を続けていました。次々に同僚の司祭たちが殉教してゆく中を、有馬に根拠地をつくり、三〇年、三一年と二度にわたり、本州縦断の旅をし、信者を励まし、秘跡をさずけ、精力的に活動をしています。三三年の最後の手紙にも全国各地の地名がみられます。欧州から京都に戻り、大阪に逃れましたが、淀川の船上で逮捕され、長崎に護送されました。
 一度は西坂で穴吊りの刑を受けていたのですが、フレイラ神父が棄教したため、ルカ神父にも棄教させようと牢に戻され、説得が繰り返されました。しかし、彼は、信仰のために死ぬことを選び、穴吊りの刑を再び受け、一六三三年十月十九日、殉教しました。




聖アントニオ・ゴンザレス
             司祭

 一五九三年、スペインのレオン市に生まれました。両親は頭のよい彼をみて、幼いときから司教座神学校に入れ、勉強させました。たいへんな秀才ぶりをうたわれていましたが、ドミニコ会に入りました。説教師としてのほまれ高く、スペイン各地から呼ばれ、多くの人々に影響を及ぼしました。
 一六三二年、日本宣教を望み、マニラに到着し、日本での困難な宣教生活にそなえ、祈りの生活を強めていきました。一六三四年、日本の教会の滅亡と、すべての司祭が殉教したことが知らされ、日本への援助が説かれました。こうして、当時聖トマス学院神学部長兼学長であったゴンザレス神父が日本管区長に選ばれ、一六三六年、日本宣教援助のための船がフィリピンを出発しました。
 しかし、七月十日、琉球に到着したところですぐに捕まえられ、翌三七年、京都のラザロ、ロレンソ・ルイスとともに長崎に移されました。水責めの拷問にあい、高熱を出した神父に、再び水責めが繰り返され、九月二十三日、力つきて牢内で死去したのでした。




聖ミゲル・アオザラザ
           司祭

 スペイン北部のオニャテ村に生まれました。生年月日は不明ですが、一五九八年二月七日に洗礼を受けています。ドミニコ会に入会し、司祭になりましたが、入会の時も叙階の年月も、詳しくはわかっていません。確かなことは、マドリッドで数年過ごした後のことです。彼の外交的な才能が発揮され、修道院で重要な働きをしていましたが、一六三四年四月、東洋宣教のため、メキシコのアカプルコ港を出航し、四か月の航海の後マニラに着きました。
 マニラで日本語の勉強をした後、一六三六年、ゴンザレス神父、クルテ神父とともに日本に向けて出航したのですが、日本への第一歩である琉球で捕らえられ、翌年、長崎に護送されたのでした。アオザラザ神父は、忍耐強く、拷問に耐え忍び、ロザリオの聖母によりすがり、祈り続けました。
 一六三七年、穴吊りの刑を受け、三日間の苦しみの後、九月二十九日斬首され殉教しました。他の殉教者と同じように、遺体は焼かれ、その灰が信者の手に渡らないように、袋に詰められ、その日のうちに海に捨てられました。




聖ヨルダノ・アンサロネ
            司祭

 ヨルダノは、一五九八年、シシリー島のもっとも古い貴族の一族であり、教育の分野ですぐれた人物を輩出している家柄に生まれました。
 ドミニコ会に入会し、彼が神学生の時代、日本での禁教のことが伝えられ、彼の心には日本での宣教と、そのために生命をささげるという固い決意が生まれました。一六二二年、司祭になりまずマニラに行き、病院や中国人植民地で病人や中国人のために六年間奉仕の生活をしました。病院と教会で、ひろい心と忍耐をもって病人や人々に接するヨルダノ神父の姿は、当時の人々から、完全な福音の使徒として慕われました。
 キリストのために生命をささげるという願いに燃え、一六三二年、長崎に到着しましたが、彼らを乗せた中国船の密告で、すぐにヨルダノ神父は全国に指名手配されてしまいました。厳しい役人の目を逃れ、困難な宣教生活の間にも、『大村の修道女マリナの伝記』と『神の審判』という本を著しました。一六三四年、重病にかかり、看病していた西神父とともに逮捕され、十一月十七日殉教しました。




聖ギョーム・クルテ
         司祭

 ギョーム・クルテは、フランスのモンペリエで、一五九〇年に生まれ、一六〇七年、アルビのドミニコ会に入会し、トゥルーズで神学を学びました。司祭叙階後は、サン・マキシマン王立修道院の神学講師となり、一六二四年アビニオン修道院院長となってからは、修道院の改革に力を入れています。
 その後、マドリッドに移り、五年間滞在しましたが、その高潔な人柄で、指導司祭として多くの人々に慕われていました。一六三五年マニラに到着しましたが、マニラでもその人柄ゆえに、トマス学院の神学教授に迎えられ、多くの人を指導しました。クルテ神父は自分に厳しく、人には優しく、回心する人は特別に慰めを感じたといわれています。
 一六三六年、日本宣教にはやる心でマニラを出発したのでしたが、日本到着と同時に逮捕され翌三七年、長崎に移されました。拷問にも耐え、死刑の宣告文をつけられて、市内を引きまわされた後、穴吊りの刑を受け、祈りながら三日間耐えていました。狩りに行く前の奉行が刑の執行を急ぎ、斬首を命じ、こうして九月二十九日、クルテ神父は神のもとにかえりました。






16聖人名リスト

日本人

1.聖トマス西(司祭) Thomas a S. Hyacintho,seu Hioji Nishi
  出生地・月日  1590年平戸生月。
  叙階・誓願等  1624年修練院に入る。1625年誓願。
  叙階月日は不明。
  1629年11月10日帰国。1634年11月17日殉教。

2.聖ヤコボ朝長(司祭) Iacobus Kyushei Gorobioye Tomonaga
  出生地・月日  1582年大村領水田の杭出津。
  叙階・誓願等  1624年ドミニコ会入会。25年誓願。
  26年叙階。
  1632年帰国。1633年8月17日殉教。

3.聖ビセンテ塩塚(司祭) Vicentius Schiwozuka a Cruce
  出生地・月日  不明。
  叙階・誓願等  叙階年月日は不明。
  1636年琉球到着。1637年長崎移送、9月29日殉教。

4.聖マテオ小兵衛(修士) Matthaeus Kohioye a Rosario
  出生地・月日  1615年長崎、または有馬
  叙階・誓願等  1632年からルカ師と協力。ドミニコ会の制服を着衣。
  1633年10月19日殉教。

5.聖フランシスコ正右衛門(修士) Franciscus Shoyemon
  出生地・月日、叙階・誓願等  不明。
  ドミニコ会士。エルキシア神父の同宿。
  1633年8月14日殉教。

6.聖長崎のマグダレナ(修女)
   Sor.Magudalena de Nagasaki,Virgo
  出生地・月日  1610年(推定)長崎近くの小村。
  叙階・誓願等  1632年誓願。1634年10月15日殉教。

7.聖大村のマリナ(修女) Sor.Marina de Omura,Virgo
  出生地・月日  肥前大村。1623年から外国人宣教師を援助。
  叙階・誓願等  1623年〜26年のいつか。
  1634年11月11日殉教。

8.聖ミゲル九郎兵衛(信徒) Michael Kurobioye
  出生地・月日  不明。
  朝長神父と同宿。1633年8月17日殉教。

9.聖京都のラザロ(信徒) Lazarus de Kyouto
  出生地・月日  京都。
  1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月29日殉教。

フィリピン人

10.聖ロレンソ・ルイス(信徒) Laurentius Ruiz
   出生地・月日  1600年頃フィリピン・ビノンド島。
   1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月29日殉教。

スペイン人

11.聖ドミンゴ・エルキシア(司祭)
  Dominicus Ibanez de Erquicia
  出生地・月日  1589年スペイン・ギプッコア県パンプロナ司教区
  叙階・誓願等  1605年誓願。叙階年月日は不明。
  1623年来日。1633年8月14日殉教。

12.聖ルカ・スピリト・サント(司祭)
  Lucas Alonso,sumpto nomine a Spiritu Sancto
  出生地・月日  1594年スペイン・ザモラ県アストガル司教区カラセド村
  叙階・誓願等  1610年ドミニコ会入会。1617年叙階。
  1623年来日。1633年10月19日殉教。

13.聖アントニオ・ゴンザレス(司祭)Antonius Gonzalez
  出生地・月日  1593年スペイン・レオン市
  叙階・誓願等  年月日不明。
  1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月23日殉教。

14.聖ミゲル・アオザラザ(司祭)Michael de Aozaraza
  出生地・月日  スペイン・ギプズコア県オニャテ村。
  叙階・誓願等  誓願は1615年頃。叙階年月日は不明。
  1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月29日殉教。

イタリア人

15.聖ヨルダノ・アンサロネ(司祭)
  Iordanus de S.Stephano,cui nomen famliae Hyacinthus Ansalone
  出生地・月日  1598年シシリー島アグリジェント県
  叙階・誓願等  1616年誓願。1622年叙階。
  1632年来日。1634年11月17日殉教。

フランス人

16.聖ギョーム・クルテ(司祭) Guillelmus Courtet
  出生地・月日  1590年フランス・モンペリエ
  叙階・誓願等  1608年誓願。1617年以前に叙階。
  1636年琉球に到着。37年長崎に移送。同年9月29日殉教。



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